どうして二つに分かれてる?
京都にある東本願寺と西本願寺の共通点と違いを解説!

国内旅行

こんにちは。かみやんです。

京都を旅行したことある人はきっと多いかと思いますが、京都駅近くに東本願寺と西本願寺という二つの本願寺があることはご存知でしたか?

こちらが東本願寺で、

こちらが西本願寺。とても似ていますよね。

京都駅から徒歩圏内に両お寺ともあるので訪れた人も少なくないかとは思いますが、なぜ東本願寺と西本願寺に分かれているか知っている人はあまりいないかも。

ということで今回は、京都駅近くにある東本願寺と西本願寺が分かれている理由と、これらの共通点と違いについて解説していきます。

これを知ることでより京都旅行を楽しめるようになると思うので、ぜひ最後までご覧ください。

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どうして東本願寺と西本願寺に分かれているの?

まずは、東本願寺と西本願寺がどうして二つに分かれているかについて解説していきます。

戦国時代

戦国時代、元々は一つの本願寺で、摂津国(現在の大阪府)に石山本願寺として力を保持していました。

しかし、1570年に織田信長がこの石山本願寺に攻めたことをきっかけに、結果的に分裂しました。

当時石山本願寺は難攻不落の砦とされており、織田信長でさえも10年も攻めたにも関わらず降伏することなく抵抗していたほどでした。

そこで、織田信長は当時の天皇を間に入れて、和睦を求めました。

この時、本願寺の方で織田信長と引き続き戦うのか、それとも和睦を受け入れるのかで意見が分かれ、溝ができました。

この溝は最後まで埋まることなく、最終的に本願寺が二つに分かれたという経緯になります。

和睦を受け入れた方は豊臣秀吉に近づき七條堀川に西本願寺を建て、織田信長と戦う道を選んだ方は後に徳川家康に近づき、七條烏丸に東本願寺を建てました。

それらが現在まで残っているのです。

江戸時代~

江戸時代になっても東本願寺と西本願寺の溝はなかなか埋まりませんでした。

しかし江戸時代の後半幕末の時期になるにつれて互いに歩み寄ることとなり、かつての溝はなくなりました。

幕末で有名な新選組は、なんと西本願寺に本拠地を構えていました。

それでもなお東本願寺も西本願寺もともに、1987年まではお互いに「本願寺」と正式名を名乗っていましたが、現在はそれぞれ正式名として「東本願寺」「西本願寺」となっています。



東本願寺と西本願寺の共通点と違いを解説!

ここまでどうして東本願寺と西本願寺が二つに分かれているかについて解説してきましたが、ここからはその東本願寺と西本願寺の共通点と違いを解説していきます。

東本願寺と西本願寺の共通点

まず、東本願寺も西本願寺もどちらも浄土真宗のお寺です。

浄土真宗は、阿弥陀仏を信じ感謝の心をこめて念仏を唱える他力本願の教えを広めており、東本願寺も西本願寺もこの点は共通しています。

また、お焼香の際の線香の数も共に1本と同じです。

同じ浄土真宗のお寺だから当たり前ではと思うかもしれませんが、実は違いもたくさんあります。

東本願寺と西本願寺の違い

東本願寺も西本願寺も浄土真宗のお寺と先ほど解説しましたが、実はその宗派が異なります。

東本願寺の方は真宗大谷派、西本願寺の方は本願寺派となります。

これにより東本願寺と西本願寺にいくつかの違いが生れています。

まず、先ほどあった他力本願の考え方は同じなのですが、その浄土真宗で最も大事とされる帰命無量寿というお経にて、真宗大谷派では「なむあみだぶつ」、本願寺派では「なもあみだぶつ」となっています。

さらに、お焼香で線香の本数はどちらも1本でしたが、回数は東本願寺では2回、西本願寺では1回となります。

このように、元は一つのお寺でしたが、歴史を経て分かれたことで共通点もあれど全然異なる考え方やしきたりが根付いていったのです。

東本願寺と西本願寺について知ることで京都旅行をより楽しもう!

今回は、東本願寺と西本願寺がどうして二つに分かれているかの理由と、それらの共通点と違いについて解説しました。

東本願寺も西本願寺も京都駅から近いということもあり、非常に観光で行きやすいお寺となっています。

ぜひ今回解説したことを頭に入れて訪れてみてください。きっとより奥深さを感じられ、より思い出深い参拝になること間違いなしです。

以上、かみやんでした。

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